枝豆とカルピス 2

オリジナル小説

2,

「おらんおらん。またおらん、脱走や。かのちゃんがまた脱走したで」

べそをかいて太ももにすがりついた健士を片手であやしながら、

浅野信美は厨房に向かって大声で叫んだ。

厨房からのっそりと出てきたのは、てらちゃんこと寺本亮介だ。

「またかぁ、あいつこれで何度目や。どうせそのうち帰ってくんだろ。」

「かあちゃん、どこ行ったん」

健士が涙でいっぱいの瞳で信美を見上げている。

健士はまだ六歳になったばかりだ。

度々繰り返される可乃子の育児放棄に大人はまたかと呆れていたが、

子供には通用しない。

毎度、捨てられたかと恐れおののき、小さな心を痛めるのだから、これほど罪なことはない。

「仕方がない。健士はうちで預かっとくよ」

信美は健士の頭を優しく触りながら、向かいにある青物屋「浅野商店」へ

手をひいていく。

その背中を申し訳なさそうに見送り、てらちゃんはため息と一緒に厨房に

戻る。

「お料理 てらもと」はてらちゃんで二代目。

丁寧な手仕事が評判の料理屋だ。

腰を痛めて厨房に立てなくなった父に代わり、高卒で店の厨房に入った。

もちろん父にかなうはずはないが、六年目。

ようやく基本のキくらいはわかったつもり。

長く商店街で店を開けているおかげで、父の代についた常連客で

今日も店の席はありがたく埋まるのだった。

だけど、自分がこんなにも早く店を継ぐことになるなんて、てらちゃんの将来設計にはなかったことで・・・。

料理で一家を支えてくれた父親には悪いのだけれど、

あまりにも身近に見本がいたせいで、それは生活に直結した生業で、

仰ぎ見て胸を躍らせる夢なんてものとはかけ離れていた。

いろんなことに挑戦したい。

めまぐるしく自分の前に現れてくる未来に、

興味があるもの全てに手を伸ばしたい。

そして最後に、もし自分が負けたら

(目の前に広がる未来は大きく、選ぶことが許されていた。

負けるとしたらいったい何に負けるというのだろう。

途上にいるあまりそれすらもまだわからない)

地面に落ちて砕ける前にネストのように自分を受け止める、

それがこの「お料理 てらもと」なのではなかったか。

(俺は大学に行きたかった・・・勉強することだって全然嫌じゃなかった。)

いつも可乃子が脱走した時に後悔のスイッチが入る。

なんだっていつもいつも脱走なんてするのかと思うけれど、可乃子が逃げ出したくなる気持ちもわからないでもない。

(俺はなんとか卒業したけど、あいつは十六で健士を産んで、中退するしかなかった。

途中で道を踏み外したような気持ち抱いてたってそれは仕方ないわ)

「あーあ」

思わずため息をつく。

それにしても、可乃子は家のことは何一つろくにできない。

「結婚しなきゃわからんことってあるんやなぁ」

掃除洗濯料理の三家事の出来で相手を好きになるかと言ったら、

そんなバカげた基準などないに等しい。

しかし、できたほうが気持ちがよいに決まっている。

可乃子を見ていると子供が子供を育てているようだ。

ともに泣いて笑っている。

そりゃあよいときはよい。当然、だめなときはだめだ。

子は育っていく。どんな環境にも順応しながら。

店の閉店後の片付けを終えて、拭き清められた厨房からうちに戻り、

ごみダメのような部屋に入ったとたん、てらちゃんの中にはぎりぎりと歯ぎしりしたいような怒りが湧いてくる。

けれど、そこを巣と、獣の親子のように寄り添って眠っている可乃子と健士の健やかさを見るたびに、いつのまにかいとおしさしか感じなくなる。

彼らのそばに体を横たえて、毎夜てらちゃんは幸福な気持ちに包まれて眠る。

自分の生きる今は、計画とは違っている。

だけど、時々これが運命(さだめ)だと心が言う時がある。

ともに流れるように生きて行こうと思える日もある。

可乃子が飛び出したその日、夜になっても可乃子は戻らなかった。

そのせいで、てらちゃんは厨房の片付けもそこそこに、向かいの浅野屋に健士のことを迎えに行った。

すると信美の弟である正彦、通称まっちんが玄関から出てきた。

「ああ、健士、もう寝ちゃってる」

「やっぱなぁ。ほんと遅くに悪いな。」

申し訳なさそうに言うてらちゃんの言葉に首を振りながら

「かのちゃん、帰ったか」と訊いてきた。

「いいや、まだ」

「ふうん」まっちんは夜空を見上げた。「お前も毎度、大変やな」

「まあな。そのうち帰ってくるやろ」今夜は星がよく見える。

「やな。ま、健士は今夜はうちで寝たらええ。また朝起きたら連れてくし」

「ほんま、わるいな」

そう繰り返し謝るてらちゃんに、まっちんは人のよさそうな丸い顔に笑みを浮かべ言った。

「それは全然ええんやけど、やっぱ明日は無理そうか」

「あ、ああ、明日、練習かぁ」

てらちゃんは残念そうにつぶやいた。

高校の時から二人はバンドを組んでいる。

まっちんはベース。てらちゃんはリードボーカル兼ギター。

高校時代は二人とも地元ではちょっとした有名人だった。

高校を卒業した今でもバンドは続けている。時間があるときはメンバーで集まって、スタジオで練習している。

いつか来る日のために、というよりは、好きだから、というのが本音。

高校時代のような、つかみ取りに行く情熱は、それぞれ一身上の都合で

心の中で息を殺している。

けれど、いまだ生きているのには変わりはない。

「明日はそれどころちゃうな、あいつらにも適当に言っとくよ」

「ああ、そうして」

てらちゃんは深くため息をついた。「行きたかったな。ひさびさの練習」

「しかたねぇべ」まっちんまで心から残念そうにつぶやく。

「信美さんは?」

「あ、ねーちゃんももう風呂入って化粧も落としてるし、

死んでも出てこーへんわ」

まっちんが信美とそっくりの目をして笑う。

実際、子供のころ、信美とまっちんは双子のようによく似ていた。

一重瞼の細い目に、八重歯にかぶさるようなハート形の上唇。ふっくらとした顔にぽちりと団子鼻。

そして二人とも弾むように丸い体をしていた。

同級生であるまっちんとてらちゃんの五歳上の信美は、いまや三〇歳手前。

柔らかくウエーブした肩までの髪と、コスメを駆使した化粧のうまさで女を盛るのに成功していた。

ただ、まっちんの言うとおり、風呂に入ってしまったらたちまち「まっちん」になってしまう。

その姿を弟の親友であり、自分がずっと恋焦がれきた男に見せたくないというのは当然の心理。女心だ。

そうだ。

信美はずっとてらちゃんのことが好きだった。

それゆえに誰とも結婚しないことになっている。

「幼稚園のお迎え、明日ねーちゃん頼んどいてやるよ」

「うん、すんません」浅野兄弟には助けられてばかりだ。

翌朝にまた来る約束をして、てらちゃんは浅野商店をあとにする。

その背中をぼんやり見送っていたまっちんは、ポケットの中で震えるスマートフォンに我に返り、慌てて取り出した。

画面には可乃子の名前。

慌てて電話に出ると「お、お前、今どこにおるんや」と声を潜めて訊いた。

視線の延長線上のてらちゃんの背中が店の中に消えてしまうまでずっと声を殺していた。

可乃子の小さな声が、電話の向こうから聞こえてきた。

大丈夫やで。私は無事やから。

「なんで俺に電話してくんねん。あいつ心配してっぞ」

呆れたようにそう言いながら夜空を見上げると、明るい月に赤い金星が寄り添っている。

てらちゃんに電話なんかできるわけないやろ。

そんな可乃子の言葉に「俺ならいいんかい」とつっこむ。

そう言ってから心の中で自嘲気味に思う。

(まあ、そうやんな。お前にとって俺はなんでもない人やもんな。)

まっちんの声に、可乃子は答えない。いつものことだ。

これまでもこれからもそれはきっと変わることはないのだろう。

まっちんは思い出す。あれは高校一年の頃。

可乃子と同じクラスになり、好きなロックバンドの話で仲良くなった。

可乃子はバンドを組みたいと言い、パートはボーカルを希望していた。

恥ずかしそうに歌への情熱を語る可乃子は、

とてつもなく熱いものを内に秘めていたとまっちんは今になって思い出す。

可乃子の熱意に打たれたまっちんは、姉の信美に彼女を紹介した。

信美も大学の軽音サークルでバンドをやっていたのだ。

可乃子の歌のうまさは格別だった。

女子大生バンドで光を放つJKボーカルはキラキラ輝いてたちまち噂の的になった。

信美が可乃子と行動を共にするようになると高校の外でも会うことが増えていった。

気が付いたら好きに、なっていた。

「可乃子、可乃子?おいお前、いつ戻るんや」

問いかけた言葉が宙ぶらりん。

立ち切れた電話の向こうの空白はいったいどこにつながっているのだろう。

探したって見つからない、遠い遠いところなのだろうか。

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