枝豆とカルピス 3

オリジナル小説

3.十年後

「健士、健士ぃ、まだ寝てんのか?」

勢いよく「お料理 てらもと」の入り口の引き扉が開けられたかと思うと、

まるでボールが弾むように浅野兄弟が店の中に入ってきた。

「いったいいつまで寝てんねん?」階段の下から二階に向かって叫ぶ。

「っさいな、もう」

頭っから布団をかぶっても「もう八時になるで、学校遅れるで」

その声は執拗に階段下から聞こえてくる。

(なんだ、このうるささは。昨日の静寂とは雲泥の差だ。)

健士は両手で耳を強くふさいだ。

健士が返事をするまでは、引き下がらないとでも決めているのか。

浅野兄弟は口々に大声を出した。

「健士ぃ」

正彦は、まるまると太った体を精一杯に伸ばして、階段上を見上げている。

「わあったわあった」

そう言いながら、健士はしぶしぶと起き上がり、二階から顔をのぞかせた。

すると人ひとり通れるくらいの狭い階段の下に、こちらを見上げる正彦の顔と、その後ろでまったくおなじような顔をした信美が背伸びしているのが見えた。

ほんまは双子じゃね?

健士はいつも二人並んでいるのを見るとそう思うのだ。

短い体躯を弾ませる浅野兄弟は

本当によく似ていた。

八百屋「浅野商店」は、今は親を継いで正彦が中心になって店を切り盛りしていた。

昼間は八百屋。夜は相変わらずバンドの練習。

今ではぽっちゃりしてしまい、かわいらしくさえある正彦には、

「ロックやってた」やんちゃぶりはみじんも残ってはいない。

それでもそれは見た目の話であって、商店街のバンドメンバーと時間が合えばスタジオを借りてセッションしているベーシストなことには変わりない。

けれど今、自分はもうベースは弾けないのではないかと、正彦は思うのだった。

てらちゃんがいなくなってしまった。

一か月前、突然、交通事故で。

(高校からずっと一緒にやってきたのに。あいつがいないんじゃあ俺はもう無理や。)

すぐに寂しくなってしまい、泣きそうになる。

隣でそんな正彦を見ていた信美は「とりあえず笑え」と短く言った。

「健士に見せたらあかんで、その顔は」と。

そしてふらふらと寝ぼけ眼のまま階段を下りてくる健士を見ると、信美は弟を押しのけて前に出た。

「あー、やっと起きた」

「おはよーまっちん、おはよう、浅野さん」

他人行儀に信美のことを浅野さんと呼ぶのは子供のころからだ。

「信美さんの親切に甘え切ってはあかん。あの人はお前のお母さんじゃないんや。敬意を払え、敬意を」

いつも父にそう言い聞かせられていた。

信美の好意を自分は受け入れられないくせに、彼女の善意だけ利用している。

そんな自分への戒めのつもりだったのかもしれない。

信美は作ってきた弁当をカウンターに置くと、

「はよ、着替えて学校行きんさい、はいこれ、弁当」

「え、俺、もう高校やめようかと」

「なにばかなこと言ってんの」

「いや、ばかなことって、いやいやいや、俺さ、親父おらんくなったんすけど」

「それがどうした」

もう八時も回っているというのにだらしがないスウェット姿の健士にむかって信美はすごんだ。

「あんた一体いつまでそうしてるつもりやねん?」

「ねーちゃん、まあな、今日はひとまず」

「なにがひとまず?」

「いや、・・・だから、そのまだ・・・」

まっちんは、信美の剣幕にしどろもどろになりながら

「まだ俺ら癒えてないから」と言った。

「そんなんあんたらだけちゃうわ。ただ、あたしは、前に進まんとあかんて思うで」

自分でそう言って、いつのまにか泣きだしそうになった信美と、正彦の顔を交互に見つめていた健士が、湿っぽさのかけらもないこざっぱりとした声で当たり前のように言った。

「学校行ってる場合じゃないってことっす。俺やっぱ稼がないとだめっしょ」

「稼ぐ?あんたになにができるっての」

信美はそう言い放ってしまってから、「あ、」と口をつぐんだ。

「い、いや、たしかに、俺に何ができるんすかね。たしかにそれはそうや・・・」

がっくりと肩を落としたポーズで二階に引き上げようとする健士に向かって、

「ちっと待ちぃ健士」とさっきのしおらしさはどこへやらドスのきいた信美の声が響いた。

「あい」(見抜かれたか)

振り返ると、信美の顔からは涙はすっかりと消えて、じっと健士の目を見据えてくる。

やはり健士に勝ち目はない。

「どこ行くのん。」

「あ、いや、今後どうしようかとじっくり考えてみようかと、一人で」

健士はそういうと、逃げるように階段を駆け上がった。

「待ちんさい、健士ぃ!」

階段の手すりにぶら下がるようにして、信美は大声を上げたが、二階のガラス戸がぴしゃりと閉まる音聞こえてくると、あきらめたようにため息をついた。

「健士ぃ、ここに弁当おいてるからね、お昼に食べー」

二階に向かって、信美はそれだけ言うと「帰ろっか」とまっちんに言った。

二人は顔を見合わせると、小さくため息をついた。

「だーめだ」

「ほんと、こりゃだめだ」

「高校くらいは卒業しないとねぇ。でもあの子の言う通り生活費、

どうしよう。うちもそんなお金ないしな」

「保険金がいくらかあると思う」

「保険金か。けど、そんないつまでも暮らせる額ちゃうやろ」

二人はそろってため息をついた。

飴色に熟した天然木の分厚いカウンターを手で撫でながら、

「この店さえ営業できたらなぁ。箱はあるんやし、だれか借りてくれへんかな、そしたら家賃も入るし」

そんなまっちんの言葉に信美も頷いた。

「なあ、まっちん。あん時、かのちゃんは結局戻ってこんかったな」

「はぁ?今、そんな十年も前の話か」

「だって、思い出すに決まってるやん。てらちゃんがいなくなってしまったんやで。健士の肉親ってったら、かのちゃんだけやんか」

「まあ、おじさんもおばさんも死んじまったからなぁ」

「あんた、あの子の居所知ってるんやろ」

「ま、まあな」

「このこと、伝えるべきやろ」

「うん」

「かのちゃんに伝えんとあかんやろ」

「そうやな」

(こんなこと連絡したら、可乃子の胸は張り裂けてしまうわ)

まっちんはそんな風に思った。飛び出して行って十年の月日が流れても、

可乃子がここにいたのが昨日のことのように思い出される。

てらちゃんも可乃子も、自分だって笑ってた。

自分たちはできそこないの幼い子供だったかもしれないけれど、

あの頃、なんだかすごく幸せだった。

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