枝豆とカルピス 4

オリジナル小説

4,「可乃子さん、寝不足ですか?」

「ふぁー。そうなん、なんか夢見ちゃって、

よく眠れなかったんだよねぇ」

遅刻寸前で飛び込んだコンビニで可乃子は

ぼさぼさと頭をなでつけながら

カウンターの中にのろのろと進んだ。

このコンビニでアルバイトし始めて

一年がたつ。

クスクス笑いをかみしめているキューちゃんこと、九谷美香は女子大生。

最初の最初からなんだかうまがあった。

その朝の可乃子の顔といったら、

いつもにもましてひどいもので、

寝ぐせのついたショートヘアに

垂れ下がった瞼。

描くのを忘れた薄い眉。

そしてリップクリームなしのカサカサ唇。

「女の子なこと、思い出してくださいよぉ」

最近、年下の高校生の彼氏ができたせいで、

ますます女をあげているキューちゃんが、

三十越えの年上女にやんわりとだめだしする。

それはいつものことなのだが

不思議とキューちゃんに言われても

腹が立たない。

キューちゃんのもって生まれたかわいげ、

たるもののせいだ。

「過ぎ去りし日の夢」

「それって悪夢なんですか?」

「悪夢ってわけじゃないけど、

夢見がいいわけでもない」

「ふうん。悲しくなっちゃうやつですね」

大量にマスカラを絡ませた大きなたれ目に

急に愁いを浮かべて、

キューちゃんは言った。

この子は時々、的をつく。

可乃子はそれには答えず、

あいまいに笑って見せた。

すらりと背の高いキューちゃんは、

そんな可乃子の跳ね上がった後頭部を

まるで子どもを見るような目で見下ろすと

「あたしレジ打ちやっときますから、

とりあえずハネだけでも直してきたら

どうです?」

と可乃子の頭を指さした。

可乃子はいまだ、あのころの夢を見る。

夢見が悪いのは悪夢だけと決まったわけ

ではない。

夢の中でぼんやりとした視界が

次第にクリアになり、

その瞳の先に古ぼけた建物が見えてきた。

子供のころ何度も行った近所の動物園。

あれは、その中にある動物園ホールだ。

ひっそりと忘れられたように

動物園の片隅に建てられている

ホールの休憩場所で、

可乃子はひび割れた合皮のソファに

腰をおろしカフェオレを飲んでいた。

チェックのミニスカートにルーズソックス。

白いブラウス、リボンタイ。

エントランスのガラス扉の向こうでは

桜の木が晩秋の夕暮れに紅く染まっていた。

可乃子は観客がホールから出てくるたびに

顔を上げるけれど、ホールの中には入らず、

ただひとり、ゆっくりとカフェオレをすすっているのだった。

しばらくして、可乃子が重い防音扉を押し開けてホールの中へ入っていくと、

狭いステージの上にサークルのメンバーが

次々に飛び上がり、

リンダリンダの大合唱が始まっていた。

ステージから「まっちん」が可乃子に向かって手招きをしている。

体にベースをくっつけるようにして、

低音を打ち鳴らしているトサカ頭の浅野正彦。

その後ろにはてらちゃんの姿。

(ああ、もっともっとここで歌ってたい。

ずっとここにおりたい)

夢の中なのに、

その言葉を言ったような気がした。

夢の中ではいつも心が「私」と呼応していた。

可乃子にとって、それはラストライブだった。

目の前には、大学受験というものがあった。

母と約束したのだ。

バンドは高二の夏でやめると。

「けじめ」をつけなくてはならなかった。

一息つくと、可乃子は勢いをつけて

ステージに飛び上がった。

その腕を、ギターをかきならす手を止めて

てらちゃんが掴んで引き上げた。

ああ、あたし、てらちゃんのこと、

マジ好きやった。

夢うつつ可乃子は思う。

黒い髪をぴっちり後ろになでつけて、

綺麗な額を見せている。

あの笑顔、やっぱほんまかっこいい。

もう心臓持ってかれちゃいそうやで。

てらちゃんのギターと

まっちんのベースに支えられ、

力いっぱい歌った。

全身が震えるくらい血が湧きたつくらい

力いっぱい。

ステージにあふれかえるほどの仲間、仲間、

あたしの仲間たち、

さようなら。

ライブのはねた後のあの日の夜は

本当に美しかった。

夜道を照らす月明りが、燃焼したあとの空っぽの心に優しくしみ込んでくるみたいだった。

可乃子は先を行くてらちゃんの背中を、

スニーカーにかかとをしまうのも

もどかしく、つっかけたまま追いかけていた。

「待ってよ、てらちゃん」

追いついた可乃子を見下ろすてらちゃんの瞳は感情を隠していて、

すごく冷たく見えた。

そんな顔をされると胸がとっても痛くなる。

でもてらちゃんは腕をのばして可乃子の首を抱え込んだ。

その不器用さのまま、てらちゃんは言った。

「今日うち来ない?」

「うん。行く」

あの時吸い込んだてらちゃんの匂い。

今でも覚えている。

キューちゃんに言われた通り、

可乃子の後頭部のハネはひどいものだった。

水をつけて、適当になでつけただけで

まっすぐになるはずもなく、

バイトが終わるまで結局そのままだった。

今日も一日が暮れていく。

何の変哲もない一日が、

コンビニのガラスの自動ドアの向こうで

暮れていく。

可乃子はぼんやりと店の前を通り過ぎる

人波を眺めていた。

店の入り口の電光板はいつも明るく歩道を

照らしていて、

何もかも真っ白に明るいような錯覚に陥る。

けれどそれはやっぱり錯覚なのだ。

この繰り返しの毎日の行く末に

到達点など見当たらない。

この年になって、

それはけっこうきついことだ。

それでもバイトが終わると、

悩みがちな心に蓋をして、

可乃子はそそくさと弁当の棚の前へ移動した。

いつもの行動だと認識しているからなのか、

キューちゃんはそれを気にも留めない様子で、ホットケースの中に新しい豚まんを補充していた。

「ねぇ、キューちゃん、この中華丼弁当、賞味期限ギリやで、ギリ。午前0時でボツ」

と、可乃子は客の一人もいない

午後十一時をまわったコンビニで

うれしそうに声をあげた。

「中華丼弁当って変じゃない?

中華丼か中華弁当じゃないんかね」

そんなことをぶつくさいう可乃子に向かって、

「あ、さすが、目ざといですね、

見つけましたねぇ」

とキューちゃんはおおげさに褒めてくれた。

(べつにこんなこと早くたって

褒められることちゃうわ。)

可乃子はそんなキューちゃんににんまりと笑って見せると、中華丼弁当をむんずと掴んだ。

(ふぉ、セーフ。今夜の晩御飯ゲット!

 

食いっぱぐれなし!)

可乃子の経済状態はこのところずっと

困窮を極めていた。

とくに無駄遣いをしているわけでもないが、

三十二、

独身、

女。

働き口は、なかなか見つからなかった。

別段特技があるわけでもなく、

学もなく要領も悪い。

その上、歳もくっているとなると、

高給取りになれる確率など

0.0000000?パーセントもない。

ようやく見つけたコンビニのアルバイトだけで生活を回していくことになったが、

たとえ我が身一つといえども

なかなかしんどいもんで・・・。

キッチン付とは名ばかりの

薄い段ボール箱みたいな六畳一間の

ハイツの家賃を払うこと。

水道と電気とガス代を払うこと、

毎日何かを食べること。

ああ、それからトイレットロールを買うこと。

つつましくてもただ生きているというだけで、トイレットペーパーって減るものなのだと

気が付いたのはこの年齢になってからだ。

まったく「いまさら感」が強い。

いつのまにか中華丼弁当を掴んだ指に

力が入り、プラスティックの蓋が

軽い雑音をたてた。

その音で我に返った可乃子は

「店長来るまでに退散退散」

そう言って立ち上がった。

まるで頭から要らない過去を追い出すかのように。

そそくさとレジの前を通り過ぎた時、

キューちゃんが「おつかれーっす」

と男前に見送ってくれた。

そして可乃子はその夜ようやく

帰路につくのだった。

十一月の終わり。

可乃子は夜の真ん中を歩きながら、

フリースの襟元を掻き合わせた。

「ううさぶい」

耳の中に突っ込んだワイヤレスイヤホンからは大音量で音楽が流れていた。

そのメロディに誘われるように可乃子は

ひとり歌を歌い始める。

人っ子一人歩いていない夜の真ん中なのだからいいのだと、可乃子はそのまま歌いながら

歩くことにした。

メロディに包まれると自分の声が体の経路を

貫いて脳みそに溶け込んでいくのを感じる。

自分はどのみち未来にはつながっていなかった「歌うたい」だ。

それでも歌うことはやっぱり好きだ。

胸が熱くなるのはあの頃と全然変わらない。

自分の世界に入り込むように目を閉じてしまった可乃子は、何かに躓いて転びそうになり、

再び目を開けた。

「あ、マルメロ」

大きすぎるフリースの袖の中に丸め込んでいだ指先をのばし拾い上げると、

その甘い匂いを吸い込んだ。

すぐそばの路肩では母木が黄色い電球のように実を垂らしている。

(惜しいよな、マルメロってそのまんまじゃあ食べられないんだもの。

匂いだけはすっごくいいんだけどな)

枝に放置されたまま色褪せ行く実から目をそらすと、可乃子は囲った手の中に視線を落とした。

地面で強く打ったところが膿んでいた。

(痛そうやな)

「このまま転がして捨ててしまっても

いいんやけど」

可乃子は息のように細い声でつぶやいた。「いい匂いやからちょっと連れて帰ったろ」

それからは可乃子はもう星空を見上げることはなかった。

ずっと歩いて、ずっと手の中ばかり嗅いでいた。

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