6.「うわまじで?てらちゃん死んでもた」
可乃子は古ぼけた和室に飛び込むと、てらちゃんの位牌の前で声をあげた。
小さな文机に白い布がかけられ、銀糸の綺麗な布に覆われた遺骨が
黄色と白の菊の花とともに置かれていた。
両のこぶしを強く握りしめて可乃子はその遺影の前に立っていた。
「事故やったんや」
背中でまっちんの声が聞こえてきた。
「冗談きっつぅ」
握ったこぶしが震えた。
可乃子は思いもよらず勝手に飛び出した自分の言葉が嫌だった。
可乃子自身が嫌なのだから当然そのセリフを聞いたまっちんも
嫌悪をあらわにした。
「お前なに言ってんや」
「もう頭おかしなってまうわ」
涙があふれてきた。「ずっと元気でおるって思ってたのにぃ」
可乃子は床に突っ伏して泣き出した。
(現実に頭がついてこん。あかん、頭の中がぐちゃぐちゃや。)
「線香あげてやってよ」
まっちんの声。
けれど、可乃子は喉の奥から嗚咽をこぼすだけで、塊のようにうつぶせて
顔を上げなかった。
まっちんは白い布の上でぽっとともされている小さなろうそくに、
可乃子のかわりに線香をかざした。
線香は細い煙をたてながら、じじっじじっと体を燃やした。
(なんであたしてらちゃんがずっと元気でいるって思ってたんかな)
まっちんは可乃子の代わりにそっと線香を立てた。
そうしてから「俺、下におるから」と、静かに可乃子のそばを離れた。
階下に降りていくまっちんの足音が遠ざかると可乃子はこみ上げてくる嗚咽に苦しみながらぼんやりと窓の外に目をやった。
すると向かいの八百屋「浅野商店」の看板が見えた。
窓から見える景色は十年前と少しも変わっていなかった。
(ここから逃げたいって思ってた。自由になりたいって思ってた)
白地に黒の墨字で力強く書かれた「浅野商店」の文字。
それは、雨にも風にも動じなかったけれど、その無用な力強さが可乃子にはうっとうしかった。
あの看板は浅野兄弟そのものだ。浅野信美と正彦。
あの時、彼らは無用の力強さで自分を支えてくれようとした。
だけど、彼らの前に出るといつも弱くてふがいない自分を思い知ることになった。
はすかいに当てた自分の物差しの角度が、世間とずれているのに戸惑った。
子供を産んだからという理由で、
まっとうな妻であり母であることが求められた。
けれど、可乃子にとって子供は偶発的な物事であり、
それよりも大事だったのはそれにいたるまでの
てらちゃんとの日々なのだった。
子を産むことで、自分たちの関係は変わった。
冗談言って絡まってふわふわ歩いたあの日とは、全く変わってしまったのだ。
偶発的な事柄に可乃子は感動なんてしない。後悔ばかりだ。
必然的に可乃子は母にならなくてはならなかった。
産んだから。
子を産んだから。
まっとうな妻とは何だろう。
まっとうな母とは何だろう。
自由でありたかった。思いのまま生きたかった。
(でも、そんな私をてらちゃんは許してはくれなかった。
受け入れてくれなかった。
あの優しいてらちゃんはいなくなってしまった。
だからこんなカラカラとした空虚なとこに
あたしは一秒たりともいたくないって毎日毎日思ってた。)
弱虫かもしれん。けど、ええねん、それで。
無責任やし、我慢やってないの、そんなんわかってる。
けどあん時、私、逃げへんかったら死んでた。だから生きるために逃げた。
でも、だけど、
やっぱそれって・・・
あかんやんな
「ごめん、てらちゃん。ごめんなさい許してください」
可乃子は畳に突っ伏したまま、そう吐き出した。
吐き出したら同時に涙もぼろぼろと落ちてきた。
浅野正彦は階下の店に降りて行った。
二階の寒々とした和室とは対照的に、
店のところどころに置かれた小さなステンドグラスのライトには
明かりが灯り、美しい色影を壁に映していた。
「お料理 てらもと」はてらちゃんの父の代でこそ和食屋であったが、
てらちゃんが継いでからは、和洋折衷のメニューが取り揃えられていた。
内装も壁紙を張り替え、照明を落とし、
新たにアンティークのテーブルや椅子を入れたことで
和風だったことが思い出せないほどの変わりようだった。
父の代の常連客に駆け出しの時こそ助けられていたのだが、
五年もたつと、てらちゃんの料理のファンも増え、
いつのまにか人気の店になっていた。
その夜、二つあるテーブル席はどちらも埋まっており、
カウンター席には常連の初老の男が並んで座っていた。
みんなてらちゃんの死を悼み集まったはずが、
そこには泣いているのが場違いなような心地よさがあふれ、
それこそてらちゃんの店づくりの手腕だったのだとまた思い起こさせ、
涙を誘う。
そんな無限ループが繰り返されているのだった。
(てらちゃんがいなくなっても店は死んでない)
正彦は階段を降り切ったところで、戸口の影から店内をうかがうと
そう思った。
みんなそれぞれに瓶ビールをつぎあったり、ワインをかたむけたり。
何を食べているのかとテーブルに目をやると、
コンビニで買ってきたのかチョコレートやナッツの袋が
無造作に広げられていた。
(てらちゃんが見たら怒るわ。店は死んでないけど、
やっぱ五体満足ではないんやな。
てらちゃんがいないんやから、
うまいつまみがないのも仕様がないけど、
いくらなんでもあれは悲しくっててらちゃんには見せられへんな)
「姉ちゃん、来てたんか」
正彦がしかめっつらのまま裏からそろそろと姿を現すと、
カウンター席の一番奥に信美の姿があった。
「あの子は?」
可乃子を連れてくると前もって信美には話しておいた。
信美は可乃子のことを待ち構えている体だったが、
まっちんはなぜだかわからないうちに
自分がこの姉から可乃子のことを守ってやらなくてはならないという
使命感にかられているのだった。
(高校の時を思い出すな。あいつはいっつも姉貴に怒られてばかり。
まったく手の焼けるヤツだった)
「まだ二階。しばらくの間、そっとしておいてやろ」
信美はすんなり頷くと、それ以上は何も言わなかった。
その信美はといえば、エネルギッシュさは若いころと変わらない。
瞳は生気に満ち、ニットワンピースの中で相変わらずの
丸い体が弾むようだった。
肩までのウェーブがかかった髪は年のせいか少しぱさついているが、
口紅は鮮やかなローズ。
太って張りのある頬は、すでにビールで紅く上気していた。
「まっちんさん、何飲みます?」
その声に正彦は顔を上げ、はっとした。てらちゃんだと一瞬思ったのだ。
でもそんなことがあるわけがない。
カウンターの中の金髪は健士だった。
「ビールにしましょか、今は瓶しかないんすけど」
「お前ぇ、なんやいっちょ前に」
説明のつかない感情がふいにあふれて、正彦は胸が詰まった。
(もうカウンターに入ってやがる。そこはあいつの場所やのに。
お前みたいな若輩者が、そ、そ、その神聖な場所に立ってるなんて
十年早いんだよ)
今まで健士に感じたこともないいらだちがあふれてきた。
(子供のくせに大人のマネしやがって)
「自分でやる。お前、カウンターから出ろ」
ぶっきらぼうにそう言うと正彦はずかずかとカウンターに入っていった。
狭いカウンターの中でせめぎあうような形になった二人は
体をずらすように入れ替わった。
「俺がやるって」
「いや、自分でやる」
健士はかたくなな正彦の態度に肩をすくめてみせると、
カウンターから外へ出た。
「なぁ、まっちん、枝豆茹でる?」
その時、信美が言った。
「枝豆?」
不穏な空気がゆるんだ。
「そ。茹でてよ。持ってきたから」
信美はのんきな音色で言うと、
足元の紙袋からごそごそと枝付きの枝豆を引っ張り出した。
「これ、丹波の黒豆だから、めちゃくちゃうまいよ、ほら」
それを見ていた客たちが「わあ」だの「ほぉ」だの声を上げる。
うまいものはみんな知っているのだ。
「え、それどうやって茹でるの?」
健士がその枝にたわわに実った自然のままの黒豆を初めて見たかのように
試し眺めつ、両手の中で回した。
「上手に茹でてや、まっちん」テーブル席から声があがる。
「おう」
正彦の頼もしい返事に、健士ははっとして顔をあげた。
(親父のまねしてカウンターの中に立っては見たけれど、
俺、料理なんてからっきし知らねえし。
自分で思ってるよりできることは少ない。できないことは多い)
さっきまで調子に乗ってドリンクを作っていたのに、
突然の悲しみが胸を突いた。
ふざけたようにふらふらとカウンター内から出た健士だったが、
今は気が抜けたようにおとなしく端っこの席に座り、
枝豆を茹でにかかるまっちんの姿を見ているのだった。
(まっちんさんは父さんと全然違う。親父とはあんまりしゃべらんかった。
でもまっちんさんは何でも話しやすくて、何回まっちんさんに助けられたか
わからんなあ。
だから俺、これからちゃんとまっちんさんの言うこと、聞くよ。
聞いて生きていく。
ひとりぼっちになっちまったからな。
なぁ、まっちんさんはいなくなったりしないでくれよな。
俺のとなりでいろいろ言ってくれよな)
ぐらぐらと大なべの中で湯が沸いて、落とされた枝豆がゆであがる。
ざるいっぱいの枝豆から熱い湯気がたちのぼる。
豆のさわやかな青臭さが湯気の中ではじけて鼻腔をくすぐる。
熱湯を受けたステンレスのシンクがボンと音をたてた。
まっちんは腕まくりをした右手で塩をつまみ、ざるを豪快にふりながら枝豆にまぶしていく。
それからカウンターに並べた白い皿に枝豆を山盛りに盛り付けた。
「ぜいたくやー」
「ほんま、自然の恩恵。うまいもんはシンプルにこういう食べ方が
いちばんうまい」
皿からひとつ、信美がつまみ上げて口に入れると
「ん。茹で加減最高!」と笑った。