7.賑やかな話声が店の中にあふれている。
それを背中に、正彦は静かに階段を上がった。
可乃子がいつまでたっても降りてはこないのがふいに気になったからだ。
暗く狭い階段を登りきると、
開けっ放しになった和室のガラス戸から中をのぞきこんだ。
すると、自分が出ていった時のままの恰好で、
可乃子が一個の塊のようにうずくまっているのが見えた。
文机の位牌のそばのろうそくが小さな明かりを灯していて、
蛍光灯の白い光が薄暗くたまる部屋の中でひときわ温かく思えた。
「可乃子」
正彦は入り口でそう声をかけた。それでも可乃子は動かない。
正彦は怪訝な顔で可乃子に近づき、うつぶせになっている顔を覗き込んだ。
小さなピリングのできたフリースの袖は涙と鼻水でぬれていた。
着古した上着なのか生地が薄くなっている。
雑に塗ったファンデーションが涙でよれて、頬に筋を作っていた。
目じりの皺は深く、その下には青黒いクマが広がっていた。
頬にかかる毛先のばらついた髪。
根元のはげたマニュキュアの手をこぶしに強く丸めていた。
(疲れた顔して。
いったいどんな生活してんや。ただ生きてるだけじゃあかんねん。
お前は幸せじゃなくちゃあかんねん)
可乃子の顔を見つめていると、あの頃がよみがえってくる。
正彦は鼻の奥がツンとして、思わず目をそらした。
「お待たせー」
綺麗な声で正彦に手を振る可乃子の長い髪が、陽光に輝いていた。
太陽を背にしたその姿に目を細めて、正彦は手をあげる。
可乃子のことがまぶしい。
まぶしくて見ていられない。
心の中によみがえるのは、高校生だったあの頃。
自分の方へ駆けてくる可乃子と、その後ろからゆっくりと歩いてくるてらちゃんの姿。
「今日もスタジオ借りてんの?」
あどけない顔でそう訊ねる可乃子に、正彦は無言で頷いて見せた。
誰とでも打ち解けて話せる性格が自慢だったのに、
可乃子の前ではどぎまぎして自然体でいられない。
正彦は自分をそうさせる原因不明の感情に戸惑っていた。
可乃子がてらちゃんのことを好きだと知ったのは、
高一のバレンタインディのことだ。
自分に渡されたのはチョコレートだけだったのに、
てらちゃんにはオルゴールのプレゼントがついていた。
ショックだった。
(俺ぁ、可乃子のことが好きだったんだなぁ。)
けれど相手がてらちゃんでは、たちうちできない。
背が高くて、綺麗な白い肌に端正な顔立ち。
甘い声のヴォーカリスト。寡黙でアンニュイ。
男の自分でもかっこいいと思うのだ。
だから可乃子が好きになるのも当然だと思った。
(やっぱあきらめるしかないかなぁ。)
可乃子のことをとても好きだったけれど、
自分のものにはならないことがわかって、かえって楽になった。
胸のつかえがおりた。
どうしようもなく不安定な気持ちから一刻も早く抜け出したかった。
てらちゃんにだったら、可乃子を渡してもいい。
二人が一緒になるのになんの不服があろうか。
その気持ち、すごくしっくり来た。
そして、一年がすぎた。高二の夏の終わりまでは、いつも三人一緒にいた。
秋になると、可乃子の恋は実った。
そして、自分以外の二人、可乃子とてらちゃんに赤ん坊ができた。
健士が生まれたのだ。
正彦は苦虫をかみつぶしたような顔で、眠っている可乃子を見下ろした。
頭の中に可乃子が家を飛び出したあの日のことがよみがえってきた。
もう十年もたつのに、その記憶はとても鮮明だ。