枝豆とカルピス 8

オリジナル小説

8.「もうくっついてこないでよ」

可乃子は太ももに強くしがみついてくる健士のことを押しのけた。

それでも健士はぐずぐずと泣きながらくらいついてくる。

「なんでわかんないの?あたしは嫌だって言ってんの

離してって言ってんの」

可乃子が引き離そうとすればするほど、

健士はこの世の終わりのように泣き叫ぶ。

何が不満なのかわからない。

さっきからずっとぐずぐず言って、

ご機嫌取りに出したお菓子に目もくれない。

健士のぐずぐずは今に始まったことじゃない。

なだめたりすかしたり気をそらしてみたり。

可乃子も努力はしてきたのだ。

でも特に最近は何をやっても機嫌はなおらない。

ただイヤイヤを繰り返すばかり。

「いやなのはこっちのセリフ、いい加減にしてよ、もう」

可乃子は声を荒げて思い切り健士を引きはがした。

その勢いで健士の体は投げ出され、和室の隅に転がった。

するとますます大声で泣きわめき始める。

(まるで演技がかってる。子役かよ)

可乃子は心の中で毒づいた。

(おおらかな母の愛なんてあたし感じない。もう限界きた!)

可乃子は泣き叫ぶ健士を放り出して、和室から逃げ出した。

そして階の店に飛び込んだ。

「てらちゃんっ」

つるつるの頬を紅く上気させ、おかっぱ髪を振り乱して、

可乃子はいらだった心のまま叫ぶようにてらちゃんを呼ぶのだ。

「何」

可乃子の踏ん張った足元が冷や水のように冷たい寺ちゃんの声になえていく。

(なんでそんな冷たい顔であたしを見んの)

可乃子は怯んだ。

「今、仕込みしてんねん。」

「健士が、言うこと聞かへんのっ。全然」

「お前さ、毎度毎度何言ってんの。母親やろ」

その言葉に可乃子は言葉を飲み込んだ。

(母親やからなんやねん?

母親やから子供の世話ができるって、そんなん当たり前のことちゃうで。

少なくともあたしはできへん。

母親らしくあれたことがなんか一回もないわ)

「助けてって言ってるやん」

「え?」

「手伝ってって言ってるやんか」

「だから俺は店の仕事が」

「いつもいつも店、店、店。てらちゃんの頭ン中にはそれしかないん?

ちょっとは手伝ってやろうとかないん?」

「お前なぁ、俺やってなんでもかんでもできへんわ」

あきれたようにてらちゃんがため息をついた。

「家んなかのことくらい、ちゃんとやってくれや」

その時だった。

店の扉が音をたてて開き

「買い出し行ってきたよ」と浅野信美が入ってきた。

「あ、れ?かのちゃん、どした?」

(振り乱したあたしの髪とは大違い。

浅野さんの髪は、いっつもふわふわ綺麗な茶色で柔らかそう。

シミのついたあたしのトレーナーとは大違いやな。

手首の上が空気をはらんだみたいなちょうちん袖の

てろんてろんのブラウスで。

ウエストマークしたすその広いワイドパンツは

いつもきちんとプレスされている)

可乃子はぎゅっと目を閉じた。そしてもう一度開けると

「なんでもないです」と言った。

(あたしやってプライドあんねん)

「あらそ?何でもない風でもないけど?」

「いいんですよ、こいつのことは。

あ、買い出しありがとうございました。

助かりました」

「いつでも頼んで。さてと、なんかほかに手伝うことあったらやるよ」

と信美はブラウスの腕をまくりあげた。

白くてきめの細かい手首の内側が目に飛び込んできた時、

可乃子は目をそらして逃げ出した。

二階に駆け上がったら、和室の隅で健士が指しゃぶりをしながら

泣き寝入りしていた。

丸いお腹がまくれ上がったシャツの隙間からはみ出していた。

「ごめんね」

可乃子は乱雑に散らかった部屋でブランケットを見つけてきて

健士にかけると

「汚い部屋だね。いいかげん片付けなくちゃね」とひとりごとを言った。

実際、料理も洗濯も掃除もきちんとできたためしがなかった。

ちゃんとしなくてはならないと頭ではわかっているけれど、

てらちゃんに指摘されると腹が立ってあれこれ言い訳してしまう。

自己弁護してしまう。

本当は自分ができていないこと一番わかっているのに。

なにもかもてらちゃんが私にやさしくしないせいだ。

なにもかもてらちゃんが愛を持って私を包まないせいだ。

そうやっててらちゃんのことを責めて、自分を守っている。

もう限界だ。

嫌すぎて死んじゃう。

こっから逃げなきゃ。

可乃子は裏口から塀を越えて、飛んで行ってしまいたいと

毎日一度は思うのだ。

だから、その日、それを決行することにした。

「お願い見逃して!」

可乃子は寺本家の裏口の高塀を超えようとして、

ちょうどそこへやってきた正彦を見下ろした。

大きく足を踏み上げた可乃子のあられもない恰好に度肝を抜かれて、

目をそらすにもそらせずに正彦はその場でフリーズした。

「な、な、な、なにやってんだあ、お前」思

わずそんな声がもれた。

「なんにも言わないで見逃して」

可乃子は切なそうに眉根を寄せてもう一度そう繰りかえすと、

高い塀から地面に飛び降りた。

「っ痛」

着地の際に膝を強打したのか、可乃子は顔をゆがめた。

「あーあーもう大丈夫かよ」

慌てて駆け寄ろうとした正彦を、掌を思い切り広げたパーで制する。

「来ないで。来ないでって」

可乃子はそのまま後ずさる。

可乃子の掌から発せられる「気」にたじろいで、

一歩も動けない正彦の前で可乃子は素早くくびすを返した。

その時、何も言えないで可乃子を見逃してしまいそうな正彦の背後から

鋭い声が響いた。

「どこ行くねんっ」

裏口の扉が乱暴に開かれたと思うと、てらちゃんが駆け出してきた。

「お前ぇ」

可乃子はいたずらが見つかった子供のようにびくりと体を震わせ、

ぴたりと動きを止めた。

「健士が泣いてるから、見てこいや」

てらちゃんはあきれたように可乃子のはだしを見下ろした。

「ったく、お前、また逃げんのかよ。」

「・・・やだ」

「へ?」

「嫌だって言ってんだ」

可乃子はそうつぶやいた。その顔はぞっとするほど打ちひしがれて、

見ている正彦まで悲しくなった。

「お前、健士のおかんやろが」

冷静なてらちゃんの声が可乃子の心にぐさりと刺さった。

(てらちゃん、こんな話し方するやつだったっけ。

昔からクールなヤツだったけど)

正彦はてらちゃんのあたたかみのない物言いに違和感を感じ、

二人を交互に見た。

「たしかに」

可乃子はつぶやくようにそう答えると「たしかに」ともう一度言った。

「私は健士を産んだけど、産んだからって母親になれるというわけではない」とつぶやいた。

「もうっなにぶつくさ言ってんねん、はよ行けや」

てらちゃんが次第にいらつき始める。

それでも可乃子は微動だにせず、

しばらく土で汚れた自分の足を見下ろしていた。

それから遠く聞こえてきた女の子の声に顔を上げた。

目の先に見える商店街のアーケードには女子高生のグループが歩いているのが見えた。

(まただ。

またさっきの浅野さんに感じたのと同じ繰り返しだ。

私が手に入れられないものがこの世にあふれているような気がする。

さらさらで長い手入れの行き届いた髪

あたしのブローしていないうねった頭とは全然違う。

まっすぐの素足、香りのいいスクラブで磨き上げたすべすべの膝小僧。

くしゅくしゅ長いルーズソックス、ああ、

かわいーなぁ・・・。)

「そのリップ、どこの?」

「コスメディア。全色ほしいなぁ。

ピーチの香りの好き」

彼女たちのきらきらとした綺麗な声が可乃子の耳から脳みそに侵入する。

可乃子は自分の唇に指をやり、がさがさの感触を探り当てる。

(ああ、ああ、ああ・・・も、い、や、だ)

崩壊寸前。

(あたしだって、ちょっと前まであの子たちと一緒やった!!!)

「ほんっまに、しょうがない奴やな」

てらちゃんの冷たい声がまた耳に届いた。

顔を上げると、去っていくてらちゃんの背中が見えた。

その背中の向こうで、浅野信美が泣いている健士を抱き上げてあやしていた。

(頼りになる浅野さん。

いつも困ったときに姿を現して、助けてくれる浅野さん。

浅野さんが健士の母親になったらいい。

浅野さんがいたら健士は幸せだ。

あたしなんていなくたって全然だいじょうぶ)

「お願いや、まっちん。行かせてや」と可乃子はつぶやいた。

「あたしはたぶん、要らん人間や」

少し離れたところで、てらちゃんが信美に頭を下げているのが見えた。

信美が笑って、「いい、いい」と言っているのも。

(てらちゃん、あたしのこともう捨ててええで。

見捨ててや。

そうしてくれたほうが楽や。

もう苦しまんでいい)

可乃子は泣きたいのに、どうしてなのか涙も出てこなかった。

「ちょっと待ってろ」

正彦は玄関に戻ると、可乃子の靴をつかんだ。

このまま可乃子を行かせてしまうのは間違っているような気がした。

だけど、可乃子のむき出しの裸足が悲しくて、

とにかく正彦は靴を手に取った。

てらちゃんの姿はもうない。

奥の厨房から仕込みを再開した音が聞こえてきた。

(なんでてらちゃん、可乃子を引き留めてやらへんの?)

正彦には、

小さな健士の存在がてらちゃんと可乃子のあの頃の笑顔を奪うように思えた。

太陽みたいにまぶしかったのに・・・

健士の命の重みが二人を押しつぶそうとしている。

(いつのまにか一丁前の大人になったって自分たちは思ってた。

けど可乃子は、なんもできへんて言う。

てらちゃんは自分のことで精いっぱいやし、

俺やってなんにもできへん。

可乃子を助けてやることなんかぜんっぜん、できへん。)

正彦がスニーカーを手に外へ出ると、可乃子が力なく座り込んでいた。

その小さな足を持ち上げてスニーカーにしまってやりながら、正彦は言った。

「どこへ行くつもりやったん?」と。

可乃子はその時ようやく正彦の優しい言葉に泣くことができた。

「うち帰りたいな。

でもお母さん、もう、あたしのことなんか大嫌いなんよ」

たしか母親は可乃子が出産した後一人で田舎へ越していったと聞いた。

あれから六年がたつが、可乃子が母と会っている気配はどこにもない。

あの時、入院先から産みたての健士を抱えた可乃子が一人この寺本家にやってきて、それからずっとたったひとり奮闘しているような気がする。

姉の信美も自分もできるだけ可乃子を手伝ってやりたいと思っていた。

それでも手を出しすぎるとてらちゃんに悪いような気もして、

そんな遠慮がちなまっちんとひきかえ、

信美は思うままに口も手も出しまくっていたのだが。

(どうにもひきとめられへん)

こぶしをぎゅっと握りしめると、

可乃子がのろのろと立ち上がるのを背中で感じていた。

正彦はふっと我に返った。

いつのまにか心はあの日に戻っていた。可乃子は帰る家がないと言ったけれど、その後母親を頼っていったと聞いた。母親を訪ねたあと、しばらくしてまた街に戻り一人で暮らしているとメールを寄こした。

あれから十年もたったというのに、

見下ろした可乃子の体はあいかわらず小さい。

うずくまっている塊には、きっと今でも届かないのだろう。

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