9.
ぱちん
ぱちん
早朝、まだ薄暗いバーカウンターでひとり、
健士は昨夜の黒豆の残りを枝から外していた。
黒豆は鞘の根本から切ってしまわず、鞘をすこし切る様子で枝から外すのだ。ついでにお尻のほうの鞘にも切り込みを入れると
そこから茹でている間に塩水がしみ込んで絶妙の塩加減になる。
昨夜、そう正彦から教えてもらった。
赤いキッチンバサミは親父のものだ。
親父はこだわり屋で、自分が本当に使いやすいと思った調理器具は
何度でもリピートした。
このハサミはいったい何代目だろうか。
自分が育ってきた月日の中で、
幾度代替わりしたのだろうか。
親父もこうしてカウンターに腰を下ろして、
枝豆をゆでる下準備をしていたことを思い出した。
カウンターの中にはいつも親父がいて、目が合うと笑ってくれた。
健士はカウンターの中に目を泳がせる。
(もうこの世にいない、か)
始発電車が通過するのか、遠くで遮断機のおりる音がする。
時折、夜明けを待つ小鳥たちがフライングのように鳴く。
新聞配達のバイクがターンを繰り返す音。
店の中はとても静かだ。
コンクリ地の床。
古ぼけたテーブル。
厚い樟のカウンターは時を経て美しい艶と色をのせていた。
(知らんかった。よく見たらけっこう年期、入ってるやん)
健士が鞘を落とすぱちんぱちんという音だけが店の中に響いていた。
「ふわぁ、めちゃねむい。」
健士はひとりごちた。
昨日は常連たちがこの店で遅くまで酒盛りしていて、
静けさが訪れたのはついさっき。
空も白み始めてようやく全員家路についた。
健士はもう高校に行く気もなかったし、陽気な夜にはまりこんでいたくて、
常連たちとずっと店にいた。
(俺はなぁ、一睡もしなくたって、別に大丈夫なんや)
カウンターの上に黒豆が山積みになったのを満足げに見下ろすと、
健士はぐぐーっと伸びをした。
(ちょっとだけ寝よかな)
よろよろと裏口から二階への階段を上っていく。
(どうせ一人なんや。誰もなんも言わへん。俺はぼっちなんやから)
そう頭の中でつぶやくと、まだ涙が込み上げてきた。
(ダメ俺。けっこう泣き虫。よわっちぃ)
ぼんやりしたまま、二階の和室に入ると、
そのまま眠ってしまおうと倒れこんだ。
しかし倒れこんだ先に丸くて重い塊があって、
健士は悲鳴を上げて飛び去った。
もこもこの白いフリースの塊。
うずくまった塊。
(な、な、なに?これ)
健士が部屋の片隅まであとずさってその得体のしれないなにかを
うかがっていると、
「おはようございまぁっす」と大きな声が階下から聞こえてきた。
どたどたと重い足音がする。
また浅野兄弟か。
「いよぉ、健士、寝たんかぁ?」
テンション高めに、正彦が二階に向かって叫んだ。
「おはよう、健士、起きてるぅ?」
まっちんの後ろから、信美がぴょんぴょんと跳ねた。
二人ともついさっきまで浴びるほど酒を飲んでいたとは思えない
元気の良さだ。
その声に転がり落ちるように健士が二階から下りてきた。
「あ、あれ、なんか、なんかおる、なんかおる、二階、和室、
なんか、あれあれあれ」
舌をもつれさせて大慌てだ。
「あー」
浅野兄弟は顔を見合わせた。
「忘れてた!」
「飲みすぎだにゃぁ」
「ほんまほんま」
二人はけらけらと笑った。「かのちゃんのこと、忘れとったー」
「だ、だから、あれは何?なの」
「見に行こ」
「やな」
二階に平気な顔をして上がっていく浅野兄弟の後ろを
おどおどと健士がついて上がった。
和室を覗き込むと、可乃子はまだうずくまったまま眠っていた。
その可乃子に近づくと、正彦は肩を優しく揺らした。
「可乃子、起きて、可乃子」
「んん」
「起きろって」
「え、え?え?」
飛び起きた可乃子はあたりをきょろきょろと見回すと
正彦の顔を見つけ安どのため息をついた。
「寝ちゃってた」
「かのちゃん、お久しぶり」
正彦の後ろから顔をのぞかせ信美が言った。
「あ、あ、浅野さん。ご無沙汰してます」可乃子は乱れた髪を振り乱しながら気まずそうに、一応、頭を下げた。
「おい、健士」
正彦が信美の後ろから様子をうかがっている健士を呼んだ。
「この人、お前の母ちゃんや」と唐突に言った。
その突然の告白に健士は目を見開いた。「はぁ?」
「で、可乃子」
「ん」
「これが健士。でかくなったやろ。もう十七や」
「・・・あ、ふぁい」
まだ覚めやらない眠気と、抗うことのできないあくび。
それをかみ殺すのに必死だった。
かみ殺すと鼻の穴がふくれ、
輪をかけてブスになった。
(感動のご対面なんてものはあらへんな。
自分を捨てた母親が突然現れたと思ったら、ぼろぼろぼろの、
このていたらくや。
ほんま、恥ずかしぃわ。いややなぁ)
「迷ってんけど、はっきり言ったほうがいいと思って」
正彦は急に真剣な顔になって、可乃子に言った。
「まわりくどいのは性にあわへんのや」
「あ、うん」
可乃子は正彦の正座に合わせて、自分も背筋をただした。
「お前に昨日伝えたように、
てらちゃんはもうこの世におらへん。
だから」
「だから?」オウム返しに訊く可乃子の様子としどろもどろのまっちんの顔を交互に見つめ、健士はだんだんと不安になってきた。
「健士を、」
「うん?」可乃子が自分を見つめている。
正彦は緊張し、唾をのみこんだ。
「もーお、あんた頼りないなぁ。」
そんな正彦をおしのけて、信美が言葉を放った。
「健士が一人になってしまったから、かのちゃん、あんた面倒みてや」
「へ?」
「ってことや、言いたかったんは」と正彦が信美に続いた。
「このお店も開けてもらうからね」
信美が唇の端をぎゅっとひきしめて言う。
「いや、はや、なんの冗談っすか?あたしにできるわけないっしょ」
「できないんじゃないねん。するねん」
信美の力を借りて強気になったのか、正彦は突然熱くそう言い放ち、
腕組みをしてみせた。
「家賃ゼロでここに住まわせてやる。仕事は健士の世話と店の切り盛り」
「は?私、バイトやってあるねんで。
そんな勝手に決めてもらっても困るねんけど」
怒りに任せてそう言った可乃子の目の前に突然ひらりと紙切れが
差し出された。
一枚は、可乃子の欄だけ記入された離婚届。
もう一枚は、籍が入ったままの戸籍謄本。
「お前はまだ寺本可乃子や。健士の母親でもある。
責任逃れはもうこれ以上許さぁん!」
短い足を精一杯踏ん張って仁王立ちになった正彦が言い放った。
「離婚届っていまさら」
可乃子は鼻からふっと息をはいた。
離婚届の薄い紙はちりめん皺がたくさんよって、柔らかく質感を変えていた。
たしかに、家を飛び出した後、てらちゃんあてに離婚届を送った。
まさかその離婚届だろうか。
もう化石だ。
あの時は、当然愛想をつかされていると思ったし、
離婚届が送ったらてらちゃんもすぐに出すだろうと考えた。
確認のために最初の一年は何度か戸籍を取り寄せて
離婚届が出されたかどうか確認しようとしたが、
何度戸籍を見ようとも籍が抜かれていることはなかった。
(まさかこんな大事においとかれてるなんてな、変なの)
てらちゃんともう一度会って、話し合って、きちんと離婚する。
そうしたいのかといったら、全くそうではなかった。
この逃亡をなかったことにしたかった。
てらちゃんがもどってほしいと言ってくれたら、すぐに戻っていただろう。
離婚届を送ったのは、最初は衝動。それから虚勢。
ポーズだポーズ。本心とは違う。
自分の心に史上最大の嘘をついていた。
「お前がこれを自分勝手に送り付けてきた時、
てらちゃんから預かってん。衝動的に書いたらあかんて言うてな。
あいつ最初怒ってたけど、落ち着いたら、離婚する気なんてやっぱないって言ってたし、可乃子が帰ってくるってあれからずっと信じとった。
あいつ、ほんまはずっと待ってたんや。
ま、お前は、そんなことも知らずに結局十年戻らずや。
薄情もんもええとこやな」
まっちんはずばっと言い放つ。
「お前には母親の義務がある」
「あんたにそんなこと言われる筋合いないっつーの」
その言葉に、思わず可乃子は言い返した。
(人の気も知らんと勝手なことばかり言って)
可乃子の頭の中にあの日鈍行列車に揺られていた少女の姿がよみがえる。
てらちゃんの家から逃げ出したまではよかったが、
どこにも行くところがなくて、気が付いたら母の家に向かっていた。
一つ駅に止まると次の駅までが異常に長くて、
可乃子は頭をたれて、むき出しの素足に履いた白いスニーカーばかり
見つめていた。
いったい母の暮らす集落へたどり着くのはいつになるだろうか。
母の家に電話をかけてみたが、呼び出し音は繰り返されても主はいないようだ。
携帯電話を嫌って持たない母にほかに連絡するすべはない。
母のところへたどり着こうが、歓迎されるはずはないと知ってはいたけれど、可乃子にはそこしか行くところが思いつかないのだった。
この古い電車は都会で使われていたのだろうか。
払い下げになったけれど、もう一度任務を仰せつかって、
こんな田舎道をごとごと走っているのかな。
色褪せた緑色の座席シートの毛足は擦り切れて、白くかさかさと乾いていた。
てらちゃんとは高校からいつもおんなじ電車に乗って一緒に帰ってた。
隣に座って窓の外を流れる街並みを見つめていた。
もう一緒に目の前を流れる風景を眺めてもあたしたち、何も感じないのかな。
可乃子は無人の駅に降り立ち改札を出る前に時刻表を見上げた。
きっと母は帰れとは言わないだろうけれど、
自分が母の家にずっといられる自信もない。
じゃあどうして母のところに来てしまったんだろう?
あの頃とは違うのに。あの頃とは全部。
可乃子は思う。
母が都会での生活を捨てて、一人でこの集落へ移り住んだのは自分のせいだ。
可乃子は知っていた。
シングルマザーで自分を育てた母の願いは、
可乃子が大学まで行って就職をし、ごく普通の結婚をすることだった。
街の片隅の小さなアパートでの二人暮らし。
看護師をしていた母は生活費を稼ぐために
ほとんど家にいなかったように記憶している。
それでも母は要領よくいっさいの家事をこなしていた。
可乃子には勉強しろ、口を開けばそればかり言っていた。
だから可乃子は覚えている限り、自分が家事をしたという記憶はない。
母は可乃子に何ひとつ手伝わせようとはしなかった。
地区のトップ高校に合格した時可乃子が見た母の顔は、
これまで見たどんな顔よりも嬉しそうだった。
だから高校に入り可乃子がバンドをやりたいと告げた時、
母はいい顔をしなかった。
ただひたすらに勉強してほしかったのだと思う。
けれど母は折れた。
高二の夏からは受験勉強をするという約束で。
可乃子は本当はずっと歌を歌っていたかったけれど、母の言うことも聞いてやりたいと思った。
母はあまりに一生懸命で、弱音を吐かなかったから。
母に報われてほしいと。
母が報われるためには自分も愛情を返すことが必要なのだと。
可乃子は自分が妊娠を告げた時の母の失望した顔を今でも忘れることができない。
「同じ轍を踏むな」
初めて母が声を荒げて言った言葉だ。「幸せになってほしかったよ」と。
その時、可乃子は初めて母が自分の生き方を悔いていたと知った。
「幸せやで。あたしら愛し合ってるねん」
そんな可乃子の言葉に母は返した。
「その愛って、一体なに」と。
(そうやね、愛っていったいなんなんやろね。)
てらちゃんへの愛とか健士への愛とか、実際のところ、
今のあたしにはわかんないな。
午後の鈍行列車の車両は真昼の明るい光をため込んでいる。
ぬるくて心地いいそこには、もったいないことに人っ子ひとりいない。
ささくれだった心をもてあましている可乃子だけ、
不機嫌な顔のまま運ばれている。
一瞬吸い込まれるように母のことを考えていたけれど、
「いや、言わせてもらうわ」と言った信美の声に我に返る。
「これまで誰が健士の面倒見てきたと思ってんの?
てらちゃんなしでいったいだれがこれから健士の面倒みるっての?
他人の私ら?親のあんた?
どっちが正しいのかくらいあんたにだってわかるやろ」
「面倒見るって、この人、もう大人じゃないですか」
「この人ぉ?ずいぶん他人行儀やな」
正彦があきれたように言う。
「どっからどうみてもでかい。・・・大人ですよね」
「ちがーう!」
「なにが違うん」
「健士はまだ子供。父親をついこの間亡くしたばっかの子供なの。
身内があんたしかいないひとりぼっちの子供やねん」
信美の言い放った言葉に、可乃子はごくりと唾を飲み込んだ。
(浅野さんの言っていることは、正しい。
間違っている私が言うんやから、間違いない。
そんなこと本当はわかってる。馬鹿のあたしでもさ。)
黙り込んだ可乃子の前で、信美はカウンターにことんと小さな包みを置いた。
それがいったい何なのかいぶかしげに見つめる可乃子に
「これ、健士のお弁当」と言った。
「ねーちゃんが健士が中学の時から毎日ずっと作ってるあいつの弁当」
「明日から交代してもらってもいい?母親はあんたなんやし。
私ももう弁当作りには飽き飽きでさ」
信美はそう言って怒っているのに笑って見せた。
「な、健士もわかったな」
「え、いや、俺、この人と住むの?いきなり?
親って言われてもさ、なんかあれだわ」
「ほんま、なんかあれやわ、なぁ、いきなり親になれって言われてもな」
可乃子は困ったように首をかしげた。
「そいうとこ、なんか似てるわぁ。
やっぱし親子や」
と信美があきれたようにつぶやいた。