枝豆とカルピス 11

オリジナル小説

11.

朝だ。

可乃子はまるで旅行にでも来ているかのような気分で、新しい布団の中で目を開けた。

起き上がらずにそのまま瞳だけを動かして

あたりをうかがう。

視線の先には、古ぼけた黒いスーツケース

と小さなボストンバック。

(ああ、昨日、これだけ持ってここに

来たんだ)

バイトの帰りにハイツを解約して少しばかりの敷金を返金してもらうと、

可乃子はその足でこの古い家へ越してきたのだった。

家につくと、まっちんが玄関の前で

待っていてくれた。

可乃子の荷物を二階の和室へ上げると、

すぐに帰ってしまったけれど。

(どうしたって、

自分で何とかするしかないんや)

大きな歯車が突然かみ合って、

自分の人生が回り始めたような気がした。

きしんでひどい音をたてていようが、

回り始めたのだからもう止めることも

できない。

「はーあ」

可乃子は大きなため息をついた。

この低いところから這うように視線を

さまよわせたことは、初めてではない。

(私、ここに帰ってきちゃった)

記憶がよみがえってくる。

赤ん坊の健士がすやすやと寝息をたてていて、

その安らかな寝顔を見つめているとなぜなのかわからないのだけれど、

胸が熱くなって涙が出てきたこと。

健士のまるいおでこの向こうがわ、

車輪のついた黄色いプラスチックのトラック。

毎朝目が覚めるたびに、

昨日のことを反省して、

今日こそは、今日こそはうまくやろうと心で

こぶしをぎゅっと握っていた。

(こぶしを握ることなど、

もう長いことしていない。

決心することも、反省することも、

あれから生きてきて、

別になんもなかった)

たった一人は寂しいけれど気楽だ。

誰かとかかわらなければ、

悩みごとなど生まれない。

可乃子がまだ布団の中でぐずぐずと

していると、

狭い廊下がぎしぎしと鳴って、

健士が階下に降りていく音が聞こえてきた。

いつまでも寝ているわけにもいかない。

しばらくしてから、可乃子はいつものパジャマ代わりのジャージのままで、

ふらふらと階段を下りて行った。

一階の店を覗き込むと、コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐった。

「てらちゃん」

可乃子は思わずそう呼んでから、

はっと口をつぐんだ。

カウンターの中にいるのは健士だった。

(てらちゃんのわけないやん。

あほや、あたし)

「お、おはよう」

可乃子が言っても、健士は何も答えない。

不愛想この上ないひょろ長い少年の前の椅子に可乃子は腰をおろした。

「コーヒーお願いします」

「は?」

「あたしのも入れてよ。飲んでたんやろ」

「あっつかまし。自分でやれや」

「なんやねん、けち」

健士はコーヒーを片手にぷいとカウンターから出ていく。

二階へ上がる階段がみしみしと音をたてた。

一人になった可乃子は「あつかましかったかなーはいはいすいませんよ。

あつかましくてごめんなさいよ」

そう言いながら、やかんに水を入れ始めた。

その時、入り口の鍵ががちゃがちゃ言う音がしてまっちんが顔をのぞかせた。

「おはよーさん」

「あーびっくりした。まっちんか」

可乃子はやかんをガスコンロの上にがちゃんと乱暴に置くと、そう言った。

「俺、合い鍵、持ってっから。あ、コーヒー?飲んでんの?」

「今からいれるとこ」

「俺のも」

「あー私にもお願いします」

そう声がしたかと思うと、続いて信美が滑り込むように店に入ってきた。

「どう、かのちゃん、新しい住まいは」

「どうってってもわかりませんよ、まだ」

「がんばってねぇ。

健士、今日から高校行くから」

「へ?」

「お弁当、いるから」

「お、お弁当ぉ?」

時計の針はもう八時を指している。

(見て見てあたしまだジャージ。

これからコーヒーゆっくり飲んで

それからそれから、ってとこよ、浅野さん)

うらめしそうな顔の可乃子にはおかまいなしに信美は続けた。

「せっかく高校もう一回行く気になったんやから、ちゃんと弁当くらい持たせてやんないと」

「む、無理無理無理」

可乃子は首をぶんぶんと振った。「コンビニあるでしょうが」

「コンビニ食を健士に食べさせようっての?」

信美が批判めいた声で反論した。

(コンビニめし反対勢力がここにもおったか)可乃子は苦々しく思う。

「コンビニ食はいまや優秀ですよ。

すごく素材にもこだわってるし、

無添加だし」

「そんなん弁当の基本やん。

当たり前のことやん」

信美は断言する。

「家めしがいちばん体にいいんやって」と。

可乃子は信美にそんなことを言われながら、三人分のコーヒーを入れた。

その香りをかいでいるうちにしだいに気持ちがしずまっていった。

「なんとかしますよ。そのうちに」

そうつぶやくとコーヒーをすすった。

「・・・そのうちね」

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