14.
健士は、目にかかるほど伸びた前髪を鬱陶しそうにかきあげた。
駅までの道。
となりでは可乃子に作ってもらったオムライスを平らげたキヨラが
満足そうな顔をして歩いている。
「うまかったわぁ。最高。可乃子さんのオムライス。」
たしかに可乃子のオムライスはうまかった。
しかし健士はキヨラの言葉にはなにも返さず、
片耳のオニキスのピアスに手をやると、しばらくそれを撫でていた。
それから学ランの前ボタンを乱暴に開け放つと、深くため息をついた。
「これからあの人と暮らすんか?」
「まーな」
「お前の母ちゃんか」
「そうらしい」
「あの人が店、やんの?」
キヨラがじっと健士の目を見つめた。
いつもふざけてばかりだけれど、キヨラは時々まじめになる。
相手の身内の話はちゃかさない。そう決めているみたいだ。
「俺の親父死んじまったやろ。俺はまだ未成年やから、しかたないんやって」
そんなキヨラといると、素直になれる時がある。
それを知っているから、うるさがりながらも一緒にいるのかもしれない。
この男は不思議な男なのだ。
ぶらぶらと歩きながら、健士はアーケードの中に連なる小さな商店を眺めた。
各店の明かりは落ちていたが、両脇の背の高い街灯が
等間隔に並んで光を放っているおかげで、
健士の行く手はどこまでも明るかった。
本当は、健士はその明るさから逃れて、
暗いほうへ暗いほうへと行きたかった。
それをキヨラというビカビカした明るい光が引き留めているような気がした。
見慣れたはずの灰色のシャッターがどれしも黒ずんで見え、
まるで父の死を悼んでいるように思えたとしても、その夜、
健士の足はキヨラとともに明るさの中を進んでいた。
通夜の夜とはちがう。
家に帰りたくなくて、商店街を歩き回っていたあの夜とは。
健士はもう一人ではなかった。
父が亡くなってしばらくの間、店にはひっきりなしに弔問客が訪れた。
健士はいつも父がいたカウンターの中に座り、
弔問客が入ってくるたびに立ち上がり、
ひょろりと伸びた長身を折り曲げるように頭を下げた。
訪れるどの顔も健士のよく知った顔だった。
男手ひとつで子を育てようとする父に、
そして幼い自分に手を差し伸べてくれた人々だった。
彼らの瞳には悲しみとそれ以上に大きい戸惑いが浮かんでいた。
(俺は親父とずっと二人でやってきた。
これからだってずっと二人でやっていくつもりだった。
俺が一番不安にならんとあかんのに、なんでおじちゃん、おばちゃん、
あんたらがそんな顔するんや。
これってマジ?現実?俺、実感ぜんぜんないけど)
健士は心の中でそうつぶやいていたけれど、平気なふりを続けていた。
ただでさえ不安になっている大人たちにこれ以上心配をかけたくなかった。
健士は誰に言われたわけでもないが、
めったに着ることもなかった学ランを出してきた。
スカルやアルファベットが殴り書きされた、
ちゃらちゃらした黒い服ならいくらでも持っているのに、
まともなのはこの学ランしか思いつかなかった。
いつも好きで身につけていたものは、
ぜんぶ親父の死には不釣り合いな気がした。
だって安っぽいし、プリントされた英単語は日本語に訳すとふざけた文言だ。
たぶん親父は嫌いだ。学ランのほうが喜ぶ。
「お悔やみを」
その言葉を受けるたびに、いったいどんな顔をしていればいいのか、
健士は困惑気味に金髪の頭を少し下げるのだった。
健士はとても無口で、排他的に見える。
でもほんとうは違う。
商店街の人間は、健士がそんな外見とはうらはらに
話しかけると人懐っこい笑顔を返してくると知っていた。
学校には毎日ちゃんと通ってはいなかった。
まじめだとは口が裂けても言えなかったが、
健士は根っからの悪(ワル)ではないと、
商店街の人間はみんなわかっていた。
みんな健士のことを信じていたのだ。
自分たちが一緒になって育てた子供だからというのがその理由だった。
角の肉屋のコロッケ、焼き鳥屋の甘辛レバー煮、鮮魚店のお刺身、
お好み焼き屋の牛モダン。
八百屋のトマトだって、健士の血となり肉となり、彼を作ってきた。
健士は商店街みんなの子供だった。
そして今その健士の成長に追いついていないのは
大人たちのほうだったのかもしれない。
いつのまにか背を伸ばし分厚い肩をした健士は、
十七歳にしては大人びて見えた。
大人たちが自分の心の中ではいつまでも子供だと思っていた健士が、
久しぶりに間近で見ると大人のようになっていた。
そのせいで、彼らは健士がひとり立ちするには十分だと
錯覚したのかもしれない。
錯覚することで、まるごとの健士を引き受けてやれない
自分たちのふがいなさから逃れようとしていたのかもしれない。
善意だけだ。
善意ならいくらでも差し出せた。
商店街みんなの子供。
でも自分の子供じゃない。
自分ちの子供じゃない。それがどういうことかわかるだろうか。
人間ひとりの生活を引き受けるとなると、話は別だった。
できない。してやれない。
誰しも苦しかった。町はずれの小さな商店街だ。
どの家にも余裕などなかった。
健士はキヨラと駅で別れて、しばらく駅前の本屋で立ち読みをしていた。
単なる時間つぶしだった。
(店、開けたんかな。)
健士は本当は気になっていた。
(あいつ一人で大丈夫なんかな。生ビールをつぐことすらできへん。)
健士は単行本の新刊を手に取り、ぱらぱらとめくった。
が、しかし心はそこにあらず、ただ字面を追いかけている自分がいた。
(あいつ店なんてやんの初めてやのに。
あー気になる。ほんま、いやになるわ)
健士は単行本をぽそっと元の棚に戻した。
本屋を出て、歩き出したその後の健士の足取りは軽かった。
店に戻ることを決めたからだ。
普通に歩いていたのがそのうちに小走りになり、
はてはスピードを上げて駆けていた。
健士が息せき切って店の引き戸を引き、中にとびこむと
「いらっしゃいませ」
と明るい声が耳に飛び込んできた。
カウンターの中には髪を後ろで一つにまとめ、割烹着を着ている可乃子の姿。
カウンター席には、まっちんが一人座って生ビールを飲んでいた。
そのほかには客は誰もいなかった。
「お、健士、手伝いに戻ってきてくれたんか」
「そんなんちゃう」
そう言いながら健士はまっちんの隣に腰を下ろした。
可乃子が目の前に出してくれたお冷を飲み干すと、ごほごほとむせた。
まだ息が乱れているのが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「客、誰もおらんな」
その健士の言葉に、可乃子が答えた。
「さっきお客さん来てくれたんやけど、きっとてらちゃんの常連さんやわ。
私のこと、わかったみたいで」
まっちんが可乃子の話に頷いている。
「あんた可乃子さん違うんかって聞かれて、そうですって言ったら、
なんか急に機嫌悪くなって」
「ちょうどその時、俺が来てよかったわ」
「でもまっちん、あんなんあかんで。お客さんに怒ったらあかん」
「けど、あんな言い方は許せんで」
「どんな言い方されたん?」健士はじっと可乃子の顔を見つめた。
「てらちゃんと子供捨てて逃げ出したあのアホ女かって言われたねん。
ほんまのことやけど、やっぱこれはグサッと来たわぁ」
可乃子は心臓に槍でも刺さったかのようなリアクションで、
へらへらと笑ってみせたが、目が全然笑っていなかった。
「そしたら、まっちんが怒ってなぁ、出ていけーって。
客にやで、そんなん言うぅ?」
健士はため息をついた。しょっぱなからこんな調子では、商売にならない。
そんな可乃子と健士の顔を交互に眺めていたまっちんは
「でも、健士、帰ってきてくれたな」と嬉しそうに言った。
「俺なんておってもどうしようもない」
「なんでやねん、お前がおったら、お客さん来てくれるやろ。
商店街のみんな、お前のこと可愛くてしかたないねん。
だからお前が頑張ってたら、みんな助けてくれる。
可乃子のことも、そのうちだんだんに受け入れてくれると思う」
「いばらの道ちゃう?」
可乃子はそう言ったが、今度はその目は柔らかく垂れていた。
どこか嬉しそうに見えた。
それでも健士はそれが気に入らない。
「背負わせんなよ」
そう言い捨てると乱暴にカバンを取り上げ、二階へ駆け上がった。
可乃子のことが憎いとまで思えない、
この距離の遠さがしゃくだった。
もっと幼いころの記憶があれば、母の記憶が残っていれば、
恋しいだけ憎いのかもしれないと思うと、赤の他人のように感じて嫌だった。
「あーあ。怒っちゃったよ」
可乃子はそう言ったが、楽しそうにクスクスと笑った。
はなからとっくにあきらめているような目をして、目の前のグラスを傾けた。
「お前、そういえば飲めへんかったな。」
「へへ。カルピス。ずっとこればっか。」
可乃子はまたおいしそうに一口カルピスを飲むと
「あれ、それ何?」
それからすぐに可乃子はまっちんの前に置かれていたちらしに目を落として訊ねた。
「ああー、これ?これかぁ」
まっちんから渡されたちらしには、商店街スタア誕生の文字。
「スタアってのはスターのことかね・・・」
「そ。お前も知ってるやろ。昔からあったやん。このコンテスト、俺ら出てて」
「あーあー、あったな。まっちんとてらちゃんのバンド、ここらでは有名やったもんな!ファンとかいっぱいおったもん」
「あれからもずっと二年に一回やってるねんで。商店街バンドコンテスト」
「へえ。ずっと出てたん?」
「うん」
「てらちゃんも、出てたん・・・」
「出てた」
まっちんはそこで生ビールを一口飲んだ。「でも、もうあいつ、おらんからな」
可乃子はまっちんのくすぶりを一掃するようにあっけらかんと言った。
「そんなら健士とやったら?ギターやっとるって言ってたで」
「そういう問題ちゃうねん。てらちゃんじゃないと、あかんねん」
「なんで?てらちゃんのこと思い出すから、あかんの?」
可乃子の凝視に耐えられず、ぐっちんはまたビールをぐびり。
「ん。あかん。」
可乃子はまっちんの泣きそうな顔を見て、それ以上は何も言
わなかった。