16,
健士は今日もコンビニの鮭おにぎりをほおばっていた。
可乃子から朝渡された弁当は店のカウンターに置いてきた。
得体のしれないもののようでなんだか食べる気がしない。
この状況下、赤の他人同然の人間が作った
手作り弁当は店で買う赤の他人弁当とは
わけが違う。
工場で機械が握った飯粒のほうが
まだ気持ちがいい。
(母親づらすんなよな。
そういうのマジいらん)
健士はキヨラが購買部で買ってきたソーセージドッグを乱暴に掴むとほおばった。
「もう、健士ちゃんたら仕方ないわね、
あげるわよぉ」
と隣のキヨラがなよっと言った。
その頃、可乃子は一人、店のカウンターで
自分の作った弁当を広げていた。
二階に上がってひと眠りして、階下に降りてきたら、弁当がぽつんとカウンターに
置き去りにされていたのだ。
(おい、あたし、ショックかい?
いや、別にえっかな。
昼ごはん、できたし)
自分で自分に問いかける。
もちろん返事をするのも自分。
弁当の蓋を開けて、食べ始める。
そして、冷めて油の固まった豚の焼き肉を
食べたあたりからむかっ腹が立ってきた。
(早起きして、わざわざ作ったってんのに。
なんやあいつむかつくな)
おにぎりをぱくつきながら、
口をへの字に曲げている。
そこへがらりと店の引き戸が開き、「こんちはー」とまっちんの声。
「お、昼飯食ってんの?」
弁当箱をのぞきこんでそう言う。
「健士がおいてった弁当食べてんねん。
まじむかつく」
まっちんは腹を立てている可乃子の顔を
面白そうに眺めている。
「なに?おもしろがってんの?」
「別にぃ」
勝手知ったる様子でまっちんはカウンター内に入ると皿に入れてある豚焼き肉の残りを指さして言った。「これ、食っていい?」
「別にいいよ。」
「俺な、弁当作った後ちょっと残ってんの、
つまみぐいすんの昔から好きやってんなぁ」
「まっちんのお母さん、料理上手やった?」
「そりゃ、うまかったで。
弁当、いっつも白飯と焼き肉のたれで炒めた肉やったけど。
俺はそれがいっちゃんうまいと思ってた。」
まっちんは一口つまんで口に入れると
嬉しそうに歓声をあげた。
「おー!!!こりゃおかんのとおんなじ味や。なっつかし!」
それは焼き肉のタレが同じメーカーの
ものだからやろ、
と可乃子は突っ込みたくなったが
「ごはんもあるで、そこの炊飯器」
とぶっきらぼうに言った。
「サンキュサンキュ」
まっちんはどんぶりにご飯をよそうと、
その上に豚焼き肉をかけてほおばった。
とても満足そうなその顔を見ているうちに、
可乃子の怒りも潮が引くように消えて行った。
「昔な、おってん。男子の友達で彼女の作ったおにぎり、気持ち悪くて絶対食べられへんって言ってた子」
「ふむ」
まっちんは口の中がいっぱいなので頷くことしかできない。
「今時、おにぎりは素手で握らんやろって
言ったけど、そういうことなんやな」
「どいうこと?一人完結かよ」
「だから、お弁当とか家庭料理ってさ、
近しい人が作るから食べられるっていうか。
親しさのバロメーター?みたいやなって」
「ふむふむ」
「おかんの味って、みんなそれぞれあるやん。
大人になってもずっと記憶に残ってる味」
「ある」
まっちんがまたがぶりと大口で焼き肉を食らった。
「だから、健士はあたしの弁当を食べられへんねん」
「うむうむ」
「あたし、今日は健士のこと怒らへん。」
「うーむ」
まっちんはさっきからずっと口の中がいっぱいで、発する音はかわり映えしない。
「明日も早起きして弁当作るわ。毎日毎日作ったる。待ってろ、健士!」
可乃子は空っぽの弁当箱の前でガッツポーズを作ってみせた。
そんな可乃子の顔を見て、
にへらと笑うまっちん。
「なによ」
「いや、結構やる気あるなと思って。」
「何のやる気や?」
「健士と家族になるっての?その、なんだ、
コミュニケーション?」
「だって一緒に暮らしてんだし」
可乃子は口をとがらせた。
「ちょっとくらいは・・・」
まっちんはにやにや笑いが止まらない。
可乃子は本当はすごくまじめなのだ。
高校の時から。
まっちんはそれを知っていた。
そして、子供を産んだ時どっかがバグって、
本当の可乃子が壊れてしまったのだと
今は思っている。
「ところで」
可乃子は言った。
まっちんは皿の豚焼き肉を平らげて、
満足げに麦茶を飲み干したところ。
「浅野さんはどうしてる?」
「姉ちゃん?婚活してるで」
「婚活・・・」
可乃子は信美の顔を思い浮かべる。
その顔に婚活という文字がどうも
しっくりこない。
思えば信美と出会ったのは十六の時だから、
付き合いは長い。
(長いと言ってもここ十年は音信不通だったのだが。)
可乃子がてらちゃんと結婚してこのうちで暮らすようになってからも信美はずっと近くにいてうっとおしいくらい手を差し伸べてきた。
十年前、可乃子が二十二歳で、信美は二十七。
その頃は信美の両親はまだ若かったし、
彼女はたしか会社勤めをしていたと
記憶している。
所帯じみた自分と対照的に、
いつもきれいな服を着て、新しい靴のかかとを鳴らしていた。
彼女はたっぷりと化粧に時間をかけ、
鏡の中の自分を見つめることができたのだろう。
いつも美しかった。
でも、そんな綺麗でたよりになる信美が
どんなにてらちゃんの助けになろうとも、
てらちゃんは信美のことを好きになることなんてないという確信が可乃子にはあった。
可乃子がダメ人間でも、
健士が信美になつこうとも、
自分と健士とてらちゃんの三人だけが「家族」というひとくくりで、
その中に信美は入れてもらえない。
どんなに信美が関わろうとも結局は他人。
てらちゃんも健士も最後の最後には
きっと自分のことを選ぶ。
今考えると何の根拠もない自信だし、
何の根拠もないだけあって、
やっぱりその「家族」ってもんはあっけなく
崩れた。
壊したのは可乃子自身だったのだけれど。
てらちゃんも結局は浅野さんを受け入れた。
ちゃんとしていて、いつもそばにいてくれて、頼りになる浅野さんを。
「婚活って」
可乃子は息を吐きだすように言った。
「そんなんで浅野さん、
てらちゃんのことふっきれんの」
「お前が言うなよ」
まっちんは少し不機嫌になる。
「姉貴の気持ちなんてお前にわかるかよ」
「死んじゃったからって、ほかの人でいいってわけじゃないやん」
「ほんまお前ってうぜぇ。何様じゃ」
まっちんは椅子を蹴って立ち上がると
可乃子に背中を向けた。
「怒った?」その背中に可乃子は問いかける。「なぁ、まっちん」
「怒ってねーし」
そう言ったくせに、まっちんはそのまま振り向かずに出て行ってしまった。
いつのまにか夕刻。
可乃子は今日も一人、店を開ける準備にかかる。
お客さんなんて来るかもわからない。
可乃子が戻ってきた噂を聞きつけて、
商店街のみんなでしかとを決め込むつもりかもしれない。
けど、可乃子のことをまったく知らないお客さんが入ってきてくれるかもしれない。
そっちの確率の方がかなり高いと可乃子は
楽天的に考える。
そういうところが可乃子の生きる才能だ。
くよくよしたってはじまらないやん!
カウンターの上ではさっき浅野商店から仕入れたばかりのバジルの葉がつやつやと濃い緑の葉を香らせている。
冷蔵庫の中にはアメーラトマトとモッツアレラチーズ。
浅野商店のおかげで、この店はいつもいつでも新鮮な食材を手に入れることができる。
ありがたかったろうね。
てらちゃん。
今になって、てらちゃんの大切だったことが、少し見えるような気がした。
料理か。
可乃子はこれが自分がのぞんだ未来ではないにしても、
自分がベルトコンベアに乗せられた荷物だとしても、
どこかそこはかとなく明るいほうへ
運ばれているような気がしていた。
可乃子はそれが自分の生きる才能だとは気が付いていない。
そう思えること自体が才能なのだとは、少しも思いつかない。
その頃健士は駅前の本屋で立ち読みを
続けていた。
(また今日も帰るのが嫌や)
嫌な理由は、あれだ。そう。
今朝置き去りにした弁当だ。
階段を上っていく可乃子のぼさぼさ頭が思い出された。
(たぶんあいつ、めちゃ早起きしたはず)
何の相談もなく勝手に同居してきた、俺は了解していない、
というのが健士の言い分であったのだが、
可乃子のことが気になってしようがない。
思い出がないせいで、憎むところまでいかない希薄な関係のうえに、
一か月一緒に暮らしても可乃子の不思議さは解消できない。
いつもひょうひょうとしていて、言いたいことはなんでも言う。
気遣いなどどこ吹く風だ。
直球ストレート。
よくあんなの大人の世界で生きていけたなと、
健士にでもその生きにくさがみえるようだ。
そりゃあの冷静沈着な父さんとうまくいかないわけだ。
あいつ、今日弁当のこと、絶対文句言ってくるだろな。
「とりあえず帰ろ」
健士は本屋を出ると、駅の広い構内を人ごみをぬって進んでいった。
その時、視線の先にスマホを熱心に覗き込んでいる信美の姿を見つけた。
(あ、浅野さんやん、なにしてん?一緒に帰ろか)
信美は白い光沢のあるブラウスにレンガ色のフレアスカートを履いていた。
遠目からも綺麗に化粧をしていることがわかった。
健士は見えない壁を突き抜けて彼女に近づくことができずに立ち止まった。
あきらかに、あれは自分の知っている浅野さんではない。
戸惑う健士の前で、信美がスマホから顔を上げた。
だれかを見つけたようだ。
笑顔で数回頭を下げながら、一人の男に近づいていく。
(誰や、あの男)
健士はそのまま突っ立って信美のことを見つめていたが、
そのうちのろのろと歩き出した。
(ま、浅野さんがなにしようと俺には関係ないっちゃ)