枝豆とカルピス 17

オリジナル小説

健士が店にもどると、その日も客は一人もいなかった。

「え?え?え?ノーゲスト?」

可乃子が頷く。

健士は怒られること想定の上で戻ってきたのだが、

弁当のことは忘れ去られたように話題に上らない。

弁当箱は流しの端に綺麗に洗われて伏せてあるのだが、可乃子はそれに目もくれない。

言われなきゃ言われないで、

可乃子がどう思ったのか知りたくなる。

まったく俺ってやつは厄介な性格だ。

下手につつくと藪蛇が出るってのに。

「これさ、見てよ」

可乃子が冷蔵庫からバットを出してくる。「仕入れたのに、魚」

その魚は驚くほど肉厚で大きい。

あまり目にしない丸ごとの魚。

なかなかの迫力だ。

「それって刺身にするつもりだったとか?」

「そ。まるごと一匹で仕入れた。

結構高かった。やばいよ」

「魚、さばけんの?」

「いや、できへん。」

「じゃなんで丸ごと買ったん?」

「いや、ん、ネットで動画見たらできるかなとか思たりして」

「そんな簡単ちゃうやろ。甘いな」

しだいに可乃子はしゅんとして小声で

「なー」とつぶやいた。

それから「ちょっとこれ、見てや」と、

そろそろと貯金通帳を出してきた。

「親父のやん」

「使ってないで、私は預かってるだけやねんから。誓って、使ってへん。

っと生活費以外は」

「ふん。そか」健士は通帳を覗き込んだ。

「どんどん減ってきてるやろ。」

可乃子は細い人指し指で一段一段なぞっていく。

「毎日生きてるだけで、

ちょっとずつちょっとずつ

お金は減っていく」

大きく目を見開いて、

健士に言い聞かせるように言う。

その瞳に飲み込まれるように、健士は頷く。

一瞬「母さん」という言葉が脳裏に浮かんですぐ消えた。

それから「ちょっとずつちょっとずつ、

減っていく」と、

暗示にかけられたようにそう繰り返した。

「だから、入ってこんと出ていくばかりだということは、いつかなくなってしまうということなんですぅ」

ふざけたようににかっと笑った可乃子の笑顔はすぐにゆがむ。

「困った困った」

「俺、バイトしよか」

「あほか。バイトするならこの店で働け」

「だってここで二人でのたれ死ぬより、

俺は別のとこで稼いだほうが効率的やろ」

「あんた、わかってる?ここはてらちゃんの店やねんで」

「それがどうしたん」

「てらちゃんが、毎日一生懸命料理して、

守ってきた店やねんで」

「お前が言うな」

「へ?」

「親父が一生懸命やってきたとかお前が言うなや。お前は出て言ったくせに」

健士は冷たく言った。

この時はっきりと可乃子のことが嫌いだと

思った。

「お前はなんにも知らんやろ。

俺らがどうやって生きてきたか

何にも知らんやろ」

健士は吐き捨てた。今まで全然平気だったのに、どうしてなのか可乃子を痛めつけてやりたいと思った。

言葉の棒をふるって可乃子の心を折ってやりたいと。

脳裏にさっきの浅野さんの愛想笑いの張り付いた顔がよぎった。

(親父が生きてれば、俺ら変わることなんてなんもなかった。

浅野さんだって、変わらずに生きていくことができた。

なのにお前が来たから、浅野さんの居場所はなくなった。

浅野さんは今、自分に大嘘ついてるんや)

「しゃーないやん、いまさら」

「なんやねん、ひらきなおんなよ、

むかつくな」

「どんなに言われたところで、どうしたって取り返せへん。

あんたがあたしの弁当食べへんとか、

あたしのコーヒーは一生淹れてくれへんとか、そういうちびちびの制裁に毎日傷ついたって、もうあたしはここからどこにも

行かへん。

二回目、あんたを捨てるとか、

そういうのないから」

健士はぎりぎりと奥歯を噛んだ。

「捨てるってなんや!くそっ」

そう叫ぶと二階へ駆け上がった。

(そやな、捨てるってのはまずい言い方

やった。

離れる?

置いてく?

どっちにしろ、もう私の辞書からは削除。

そういう別離系)

可乃子はため息をついた。

修復は難しそうだ。

こんなことがこれから幾度となく繰り返されて、いつかドラマのエンディングのように微笑みあって飯でも食うか、家族の姿。

そんなものはさらさら期待していない。

自分はそれだけのことをしたのだ。

だから別にいい。

あの健士の態度でいい。

変わらなくていい。

健士は自分に歩み寄ったりしなくていい。

あれが自然な姿だ。

怒っていい。

健士はもっと怒っていい。

「さてと、このでかい魚をどう料理

しましょうかね・・・」

YouTubeの動画を見ながら、なんとか柵を切り出した。

厚切りにして綺麗な皿に盛り付けたらおいしい刺身盛になるだろう。

ほっと胸をなでおろす。

客が来なければ煮つけにでもして、

明日のメニューに回すしかない。

食材を無駄にしている場合ではないのだ。

その時、店の引き戸が音を立てて開いた。

暖簾をくぐって顔を見せたのはキューちゃんだった。

その後ろからまっちんが続いた。

「キューちゃん!」

「お久ですぅ、可乃子さん元気そう!」

「来てくれたんや」

「可乃子さんいなくなっちゃったから

バイト、面白くないんですよね、

あたしもやめちゃおっかな」

キューちゃんは唇を尖らせて可愛く言った。

その顔を見て隣でまっちんがでれでれと笑っている。

「お隣いいですか」

キューちゃんがカウンターに腰を下ろしたまっちんに言うと、

「はい、はいはいもちろんです」と真っ赤になって答えた。

「いいお店じゃないですか。

え、っと一人ですか、可乃子さん」

「一応、ん、一人」

「結構大変そうですね」

「お客さん来ないから一人でもまわせるで」

「それはネガティブ発言です。ネガティブ、NOです」

「はい。これ、どうぞ。突き出しです」

可乃子は柔らかく煮た蛸の甘辛をキューちゃんの前に置いた。

小さな光る葉を並べた木の芽の緑が

ダウンライトの下で綺麗だった。

「ありがとうございます。なんか、えへっ、大人な感じがします」

まだ女子大生のキューちゃんはコンビニで一緒に働いている時はとってもお姉さんに見えたのに、自分で言うのもなんだが

こういうこじゃれた料理屋にくると、

まだとても幼く見える。

心細げに持ち上げた箸でそろそろと突き出しを口に運ぶ姿も初々しい。

それをカウンターの中から「初々しい」などと感じている自分はなんとおこがましい

ことか。

「なにか飲む?」

「可乃子さん」キューちゃんが顔を上げると、いつのまにかその大きな瞳は涙でいっぱいだ。

「え?なに?どしたん」

可乃子は顔をひきつらせた。

「この前言ってた友達の話」

(え、なんだっけ。あ、お父さんが亡くなって学費を払えなくなったとかなんとか)

可乃子はごくんと唾をのむ。

「あれ、私のことなんですよね」

「まじで・・・」

「だから最後に挨拶に来ました。

可乃子さんに会いたかったから」

「最後ってなに」

「大学、辞めるんです。もう行けないから」

キューちゃんは蛸を口にぱくっと入れた。

もごもご言いながら

「お母さんひとりになっちゃったから、

田舎に帰ります」と続けた。

その間も大きな瞳からこぼれ落ちそうで落ちない涙。

隣で気まずそうにまっちんは息をひそめて

ビールをぐびり。

(俺が力になれたらな)

なんて思ってそうだ。

実際言い出しそうだから、まっちんのいい人ぶりは怖い。

「ベルトコンベアにあたしものせられちゃいました。運ばれていくんです。

段ボールに足はないから」

へへへ、とキューちゃんは泣いているのに

笑ってみせた。

「足、あったんですけど。ちょっと前まで。

誰かにもらった足だったみたいです。

自分でしっかり立っているって錯覚してたけど、そうじゃなかったみたい。あっという間にぐらぐらで、抜け落ちてしまいました」

想像すると怖い絵だが、可乃子は物悲しくなる。

足なんてあたしもないよと幽霊みたいに両手を揺らした。

それから可乃子は昼の間にゆで上げて置いた枝豆を小さな皿に盛ってキューちゃんの前にトンと置いた。

その時店の扉が開かれ、お客が入ってくる。

「いらっしゃいませ」

可乃子はほがらかに言った。

まだ泣いてないかな。

キューちゃんの涙こぼれてないかな。

横目でちらみして、目があったら力強く頷いた。

この頷きにどんな意味があるのかはキューちゃん次第だよ。

とにかくいつも可乃子は朗らかでありたいと思っているのだ。

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