その頃、たったひとり、アパートの部屋で九谷美香は立ち尽くしていた。
店を訪ね、可乃子がそこでなんとかやっていこうとしている姿を見て、
自分も田舎に戻る決心がついた。
部屋を引き払うことを決めて、荷物をまとめていた時、
その電話がかかってきたのだ。
母の訃報だった。
「言いにくいんじゃけどな、美香ちゃん。
あのな」
脳裏にべったりと張り付いたように、
親戚のおばちゃんの涙声がいつまでも離れなかった。
(なんで、お母さん、なんで?)
父の葬式に参列したあと、美香は逃げるように都会に戻った。
怖かったのだ。
このままこんな田舎に縛り付けられると思うと。
母には近くに住む姉妹もいたし、自分がいなくても誰かが母のなぐさめになると思っていた。
誰かが。
でもその誰かというのは自分の知る中で、
一体誰のことだったのだろう?
自分がそばにいてやればよかったのだ。
別れ際に母は大丈夫だと言った。
母が弱音を吐いている姿なんて見たことなかったから、美香はその言葉を信じることにした。
でもそれは本当に大丈夫だと思ったからではない。
信じたほうが自分に都合がよかったから、信じるふりをしたのだ。
(私はいつも自分の都合ばかり優先させてきた。
自分が自分がって、自分の時間がなによりも大事だった。
けれどそれほど重要なものだったのだろうか。
自分というものが、母よりも?
私は一人になってしまった。
世界の中でたった一人)
知らず知らずのうちに可乃子に電話していた。
店を閉めて、もう夜中の十二時をまわっているというのに、
五人は元気いっぱいだった。
興奮のあまりアドレナリンが体内をかけめぐっているのか、
いつも世話になっている地下の貸スタジオの
階段を足取り軽やかに下りていった。
仕上がりはなかなかのものだと全員思っていた。
自画自賛だろうが、それでいい。
バンド活動において重要なことは
自信をもつこと。
かっこいい、うまい、俺ら最高と思わずして
人前には立てない。
初めて可乃子の歌を聞いた時、健士はその
うまさに驚きを隠せなかった。
そして気持ちよさそうな歌いっぷりが自分の
作ったオリジナル曲の格上げをしてくれるように感じた。
キヨラは「これでええんじゃい」と納得済みでズドズド ドラムをうち鳴らし、
信美の軽やかなピアノと底をひきしめる
まっちんのベース。
水を得た魚のように、
音楽の中を行く可乃子。
最高気分良かった。
「ちょ、ちょっといい?」
可乃子はポケットの中のスマホが震えるのを感じて、歌うのをやめた。
「なになにー。練習中は携帯禁止って
きーまーりー」
とキヨラがブーイング。
「でもちょいごめん、これ、出ていい?」
可乃子はごめんごめんと何度も謝りながら、
電話に出た。
「キューちゃん」
この前、お店で泣いていたから、その夜最後は笑顔で別れたが、なんだか少し心配していたのだ。
「どしたん?」
「可乃子さん、助けてください。
助けて・・・」
スマホにかぶりつくようにして可乃子は全身で答えていた。
まるでスマホの中に吸い込まれてしまいそうなくらい、
体が前のめりになっていた。
その尋常ではない雰囲気にほかの四人は息を
ひそめ可乃子の言葉を待っていた。
「どしたん?」
健士が訊ねる。
「キューちゃんの」
「どしたん、九谷さんどうしたん?」
健士が食いつくように可乃子に言った。
「お母さんが亡くなってしまったって」
「え?でもこの前言ってなかった?お父さんが亡くなったって。田舎に帰るって」
「うん、だから、お母さんも、昨日」
「え、それって後追い?」
キヨラがそう言ったので信美が肘でどすっと
突いた。
キヨラの言葉には答えずに可乃子は四人に
向かって言った。
「明日午前十時十五分、エントリーナンバー
8番」
「な、なんや、お前まさか」まっちんが言う。
「絶対に帰ってくるから行ってくる」
「なに言うてんですか、可乃子ちん、無理ですやん。いったいどこまで行くつもりですねん」
キヨラがぶちぶち言った。
「キューちゃんの田舎は福井やったな」
「高速飛ばして車で3時間。往復6時間。
帰ってこれるな」まっちんが言う。
「用意せえ、はよ」と。
「キューちゃんにもすぐ迎えに行くって言うて。俺、車取ってくるから」
有無を言わせないまっちんの言いぶりに
「かっこええわ」とキヨラが感嘆する。
「俺も、俺も行く」
健士が突然言った。
「あんたは待ってて。もし時間に戻れんかったら、審査員のおっちゃん説得してほしい」
すぐに可乃子にそう言われて
すごすごと引き下がる。
そりゃあそうだ。この前一度会っただけの自分が行ってもなんだか場違いだ。
それでも九谷さんのことをほっとけな気がする、のに。
「浅野さんもあの、・・・こっちのこと
いろいろ、お願いできますか?」
可乃子は信美に頭を下げた。
初めてかもしれない。
素直に心から自分からお願いしたのは。
(本当に今まですいません、浅野さん)
そう心の中で言った。
頷く信美の隣で、キヨラの目が自分にもお願いしてくれないかと懇願に輝いた。
「キヨラくんも、お願いね!」
「ぅはいっ」
バタバタとスタジオを駆けだしていくまっちんと、そのあとに続く可乃子。
「意外と男らしく育ったねぇ、弟よ。」
とその後ろ姿に信美がつぶやいていた。